9/1(金) 羽田空港19時50分JAL267→21時10分広島空港21時20分→広島駅→主人宅泊1
今日は、1万519歩、歩きました。
明日は、姉の車を借りることになりました。どこへ行こうかな⁇
懐かしの倉橋島(魚釣り&海水浴何度も訪れた場所)鹿老渡(かろうと)に行ってみたいなーー
おやすみなさい💤
9/2(土) 泊1 7時→実家9時→倉橋島カフェ→鹿老渡(かろうと)→桂浜→実家泊2
歩いて実家へ。。。
「主人が咲いたの初めて見た」だって!!
母をデイサービスに見送って、鹿老渡に行くとになりました^ ^やっと行ける🙌
お出かけよりデイサービスを優先させたい母、施設のみんなが優しくしてくれるんだね🥰
こたえ。。。創業1907年、設立1950年。国産兵器製造の技術・ノウハウをもとに、産業機械事業と素形材(そけいざい)・エンジニアリング事業を展開しています。(マイナビホームページより)
素形材ってなあに⁇
こたえ。。。金属やプラスチック、ファインセラミックスなどの素材に熱や圧を加えることで形が与えられた部品や部材のことを指します。(dnusホームページより)
「大雨で山頂まで続く道路は通行止めじゃったけど、山頂まで行けるんかね」
「車で行けるか行ってみようか」
私はスカートで登れん😔
東京の高尾山が599メートル、高尾山より低いね。
宮島の弥山の標高はどのくらいだったっけ?
こたえ。。。535メートル。絵下山と同じくらいだね。
歩いてみたいな^ ^
呉の叔母の家に行く時よく通ってた道、懐かしいな。
こたえ。。。 室町・戦国期、安芸国矢野を本拠とした国人領主(こくじんりょうしゅ)。
最盛期には矢野から焼山(現在の呉市焼山町)、吉浦(同じく吉浦町)一帯、そして波多見島(倉橋島北部)を領有していました。
防芸引分(ぼうげいひきわけ)では、最終的に大内方で参戦。毛利方の海田などを攻めたが、天文二十四年(1555)四月、毛利氏に本拠・矢野城を攻められて降伏した。当主隆実は助命されたものの、多くの家臣たちが殺害され、滅亡しました。
国人(こくじん)ってなあに?
こたえ。。。主に鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代 (日本)から室町時代にかけて諸国の開発を推進した武士層のことです。
主人と行った『二河峡にこうきょう』につながります。
この地で何年稼働していた工場なの?
こたえ。。。72年です。同地区の高炉は1951年、太平洋戦争中に戦艦大和を建造した呉海軍工廠跡地に建設されました。
解体作業にはどのくらいかかるの?
こたえ。。。10年程度かかる見込みです。
跡地の利用は?
こたえ。。。活用方法は決まっていません。
愛着のある場所がなくなるのは寂しい😔
江田島を結ぶ『早瀬大橋はやせおおはし』をくぐります。
引き返し、行ってみることにする。
「ちっこいのが泳ぎょうる^ ^」
「1番乗りじや^ ^」
お店のオープンはいつ?
こたえ。。。倉橋島の古民家に2018年にオープンしました。
虎🐯と
決めーた!
美味しそうなと野菜とスープ^_^
「絵付けじゃろー」
手の込んだお料理とデザート、おいしかった😊
色んなもの、たくさん集めたね😆
向こうは海👆
鹿老渡に行くぞー
朝ドラの舞台にもなった倉橋島、鹿老渡も映ってたのを覚えてます。
題名は⁇
こたえ。。『わたしは海』放送年度は1978年です。
峠の平地に田んぼが点在してた場所かな?
手入れする人がいなくなっちゃったんだね💦
あの橋までいくのかな?
船もつくっていたのかなぁ〜⁈
鹿老渡はあの橋を渡ったあたりだったっけ???
鹿老渡はどこかな?
この先はいきどりまり。
ここは鹿老渡じゃない💦通り過ぎちゃったかも?
ここは鹿島、『鹿島大橋』を渡って、次の島に来ちゃった💦
倉橋島の最南端、鹿老渡の港に到着!
鹿老渡ってどんな場所だったの?
こたえ。。。風待ちの港でした。また朝鮮通信使が宿泊したり、九州の参勤交代の時の本陣も置かれた場所です。
完全に通り過ぎてた。。。
神社を通り、海岸沿いに行ってみようー
鹿老渡の地名の由来は?
こたえ。。。鹿老渡の地名は、韓泊(からとまり)の転化ともいう説があり、「石の箱」(箱式石棺)→からうど→かろうとの説もあり。
わたしが訪れていた50年前は、もっと賑やかな場所だったなあ。
黒ネコちゃん、見張られてる感じ
この先が海だね🏖️
もしかして、北波止場だったかも💦
私の好きな貝殻
神社に行ってみようか ー
狛犬さん
『伊勢社』に到着
屋根の狛犬
境内からの眺め
駐車場に戻ります
猫見つけた🐱
ヒマワリ残ってたね🌻
駐車場に戻ってきました。
桂浜に寄って帰りましょう〜
ちょっと大きな町
お立派な仕出しのお店があります
桂浜駐車場に到着!!
ここからお山に登れるんだって!
こたえ。。。桂浜西洋ドッグ跡です。
いつ作られたの?
こたえ。。。1882(明治15)年に友澤半三郎がこの地を借用し、西洋型帆船の修理に応ずるため「宝莱船渠(せんきよ)→ドック」という造船所を創業しました。
こたえ。。。 倉橋町は古来、長門島と呼ばれ,瀬戸内海交通の要衝でした。736(天平8)年に派遣された遣新羅使(けんしらぎし)はこの地に停泊して歌を残しています。
おまけ。。。万葉集巻十五には大石衰麻(のまろ)の歌など八首が載せられています。
遣新羅使(けんしらぎし)って⁇
こたえ。。。日本が朝鮮半島の新羅(しらぎ)に派遣した使節です。大化2年(西暦646年)の高向玄理(たかむこのくろまろ)を使節としたものをはじめとして、承和3年(西暦836年)に派遣されたものまで長く続きましたが、その目的も情勢や時代とともに大きく変わっていきました。また、その目的を果たせなかったものもあったようです。(たのしい万葉集ホームページより)
もう少し歩いてみよう
御座船は,江戸時代以降,倉橋島で建造され奉納されてきました。
長門こ造船所記念館入ってみよう。
『遣唐使』 派遣はいつ?
こたえ。。。630年~ 838年 までの間、12回から20回(諸説あり)にわたり、『唐の国 (現在の中国) 』 へ派遣されてました。
どんな航海だったの?
こたえ。。。浅瀬に適した平底船が使用された為、横波に弱く、航海技術も未熟なため、基本的に風任せという、命がけの渡海でした。
一隻に何人乗れるの?
こたえ。。。100人程度です。
何隻編成だったの?
こたえ。。。4隻編成です。
どうして4隻編成だったの?
こたえ。。。400人連れていきたかったからではなく、
1隻でも目的地に付ければ良いという、大ばくちだったといいます。(歴史のまとめネットホームページより)
朝廷から、この 『遣唐使船』 の建造を命じられたのはどこ⁇
こたえ。。。、『安芸』、『近江』、『播磨』、『丹波』、『備中』 の5ヵ所です。
その中でも大半の 『遣唐使船』 を建造したのが、『安芸の国』 で、その 『安芸の国』 の建造地とはの建造地とは、『長門島 (現在の倉橋島) 』 の事です。
これはなにかねえ⁇
こたえ。。。立石と呼ぶそうです。
高さはどのくらいあるの⁇
こたえ。。。立石は高さ約40mの巨岩です。
他の岩にも名前があるの?
こたえ。。。形から亀石、鯨石、鶏石、戸棚石、重箱石、三絃石、夫婦石、
などと名づけられてます。
江戸時代以来、来島した文人達によって漢詩や和歌の題材にされてきました。
おまけ。。。国会議事堂の二階以上の外装には倉橋島の花崗岩(尾立石)が使われています。横浜裁判所、高松宮御殿にも使われています。
桂浜神社って書いてある。
道路向かいの
この船はなあに⁈
☟
へえー
ここに展示してある三艘の 『官絃船』 は、実際に宮島の 『官絃祭』 で使用された、由緒正しい物です。
役目を終え,厳島神社から倉橋町へ寄贈されたものなのですね。
斜めからパチリ📷
駐車場に到着🅿️
向こうは江田島
倉橋島→本土に戻ります
潜水艦が見えるよ^ ^
私たちはルート31を直進
おまけ。。。野間氏は吉浦などを基地として強力な水軍を擁していたとみられ、滅亡後に吉浦を領した吉川元春はここに野間氏旧臣を入れて水軍を組織させだそうです。
晩御飯を調達して、実家に到着!!
母がディサービスから帰ってきました。
3人で晩御飯^ ^
主人も実家に泊まってくれることになりました。
親友が20時過ぎバス停まで車で迎えに来てくれ、ファミレスに直行ー
オーストリアにお嫁に行ったお嬢さん、今年、生まれたお孫ちゃんにも会えて良かったね🥰
リンツでは、自宅プールにはいったり、料理を一緒に作ったりして過ごして、テレビを見ることはなかったって、そんな生活してみたいなあ〜
お土産ありがとう。
今日は、10546歩、歩きました。
1日よく遊びました😬
また明日、おやすみなさい💤